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名古屋地方裁判所 平成5年(行ウ)14号 判決

原告

平山良平

被告

名古屋市人事委員会

右代表者委員長

永井恒夫

右訴訟代理人弁護士

冨島照男

小川淳

磯貝浩之

金田高志

主文

一  本件訴えを却下する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が原告に対し原告の勤務条件に関する措置要求について平成五年二月三日付けでした判定を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  本案前の答弁

主文一項と同旨。

2  本案の答弁

原告の請求を棄却する。

3  主文二項と同旨。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  本件判定

(一) 原告は、平成三年六月当時名古屋市立久方中学校(以下「久方中学校」という。)に勤務する教諭であったが、被告に対し、同月二七日付けで、名古屋市教育委員会(以下「市教委」という。)が名古屋市稲武野外教育センター(以下「稲武野外教育センター」という。)第二本館の教官室(以下「本件教官室」という。)を禁煙にすることを求める旨の措置要求をした(以下「本件措置要求」という。)。

(二) 被告は、原告に対し、平成五年二月三日付けで、本件措置要求について、これを認めることができない旨の判定をした(以下「本件判定」という。)。

2  本件判定の違法性

市教委は、以下の理由により、本件教官室を完全に禁煙とする措置を執るべき責務があるというべきである。それにもかかわらず、本件判定は、本件要求事項について認めることができないとしたのであるから、違法である。

(一) 原告は、平成三年五月二七日から同月二九日までの間、稲武野外教育センターにおいて勤務校である久方中学校の生徒を対象にして実施された二泊三日の稲武野外教育の引率(以下「本件引率」という。)を行った。本件引率の際、本件教官室は、引率教諭の打合せ、休憩及び就寝の場所として利用されたが、その際、禁煙とされず、喫煙規制もされなかったため、非喫煙者である原告は否応なく間接喫煙を強いられた。人は健康で文化的な生活を営む権利を有し、人格権を有するのであるから、原告が本件教官室を利用すれば、たばこ煙に汚染された空気を吸うこと(間接喫煙)を強いられること、換言すれば、間接喫煙を避けようとすれば本件教官室を利用できないということは原告の人格権の侵害であるというべきである。

(二) 本件判定は、本件教官室を禁煙としなければならないとは認められない旨判断し、その理由として、開口部の面積の基準について定めた事務所衛生基準規則三条一項の基準を満たしていることを挙げているが、右基準さえ満たせば、空気環境を衛生的に保てるわけではなく、換気が悪ければ間接喫煙による苦痛を強いられるのであるから、本件判定の右判断は、喫煙者の特権を尊重し、間接喫煙による苦痛を強いられる非喫煙者の人格権侵害を放置することになる点で違法である。

(三) 本件判定は、本件教官室において、久方中学校校長が喫煙対策として分煙等の格別の措置を講じていないことを認めながら、本件教官室を禁煙としなければならないとは認められない旨判断したことの理由として、喫煙者が非喫煙者である原告に配慮して窓を開け換気に留意していたことを挙げているが、「窓を開け換気に留意していたこと」と実際に換気がされて非喫煙者において間接喫煙を強いられない状態とは明らかに異なるのであるから、右判断は非喫煙者が間接喫煙を強いられることを容認することになる点で違法である。

(四) 本件判定は、本件教官室を禁煙としなければならないとは認められない旨判断したことの理由として、原告が実際に本件教官室で喫煙者と同席しなければならなかったのは打合せ等の極めて短い時間であったことを挙げているが、原告が喫煙者と同席した時間が極めて短い時間となったのは、本件教官室で喫煙がされたため、緊急避難として原告が本件教官室を出て同席を回避したことによるのであるから、これをもって右判断の理由とすることは違法である。

(五) 本件教官室の構造上、これを禁煙としなければ、原告が間接喫煙を強いられる状態を避けることはできない。

3  よって、原告は、被告に対し、本件判定の取消しを求める。

二  被告の本案前の主張

1  訴えの利益の不存在

行政事件訴訟法九条によれば、処分の取消しの訴えは、当該処分の取消しを求めるにつき法律上の利益を有する者に限り、提起することができるところ、右の「法律上の利益」とは、処分の取消しにより当該処分の法律上の効果を消滅させて回復されるところの自己の権利又は当該処分の根拠法規によって具体的に保護された利益と解すべきであり、これを本件訴えについてみると、原告の「法律上の利益」は、本件判定が取り消された上、本件措置要求が相当であるか否かについて新たに被告から判定を受けることにあると解される。そして、本件判定を取り消しても、原告が権利・利益の救済を得ることが期待できない場合には、右の「法律上の利益」は認められないものというべきである。

ところで、本件措置要求は、原告が本件引率を行った際に本件教官室において同席する教員から間接喫煙を強いられたことを根拠とするものであって、現時点で本件教官室を原告が常時使用し、かつ、これを使用する際に間接喫煙を強いられているとの事実がないことは明白である。したがって、仮に本件判定に違法事由があるとしてこれを取り消したとしても、この取消しによって原告の権利・利益が回復されるという関係にはなく、その意味で、原告には本件判定の取消しを求めるにつき法律上の利益がないというべきである。

そして、原告が将来において本件教官室で間接喫煙を強いられる可能性がまったくないとはいえないとしても、それは極めて不確実であり、その可能性は蓋然性とまでは評価できないから、この点を考慮しても、やはり、原告には本件判定の取消しを求めるにつき法律上の利益がないというべきである。

2  措置要求対象適格性の欠如

本件措置要求が、原告の勤務する久方中学校の野外教育引率業務に従事し本件教官室を利用する場合において本件教官室を禁煙とすべきことを求めているのではなく、その他の学校を含めた一律かつ全面的、恒常的な禁煙措置を求めることにその趣旨があるとすれば、それは、第三者の勤務条件について措置要求することを意味し、そもそも措置要求の対象としての要件を欠き不適法である。

3  訴えの利益の消滅その一

本件判定後、久方中学校では、稲武野外教育センターを利用する際における本件教官室の利用の仕方について、非喫煙者の利益に配慮した次のようなルールが作られ実施されているところ、このような非喫煙者の間接喫煙を強いられることのないようにした措置により、原告は既に訴えの利益を欠いたものというべきである。

(一) 平成四年度の野外教育では、会議中喫煙を遠慮すること、非喫煙者がいるときは極力喫煙しないこと、換気扇が設置されているので喫煙はその付近ですることがルールとされた。

(二) 平成五年度の野外教育では、更に、教員の喫煙は指定された場所(本件教官室内の板の間)で行うこと、打合せ中は禁煙にすることがルールとされた。

4  訴えの利益の消滅その二

本件教官室は、本件措置要求後、禁煙室とまではされていないが、引率教員が本件教官室を利用する際に間接喫煙を強いられることのないようにするための次のような改善措置が講じられたので、現時点では、原告の本件措置要求は実質的にはその目的を達成し、本件判定の取消しを求める本件訴えはその訴えの利益を既に失うに至ったというべきである。

すなわち、本件教官室は、その構造上和室と外側ガラスとの間に六三センチメートル幅の板の間が設けられ、板の間と和室は障子及び欄間に設置されたガラスによって空間的に完全に区分することが可能であるところ、板の間の外側窓は六枚のガラス窓となっており、そのうちの四枚については開閉することができ、なおかつ、平成四年四月には、その窓ガラスに換気扇が設置された。また、平成六年四月には、本件教官室の和室二間を区分する欄間にベニヤ板が付設され、両和室を仕切る襖、板の間側の障子、入口側扉をすべて閉め切れば、和室とそれ以外の部分とを完全に分離できるようになった。裁判所によって実施された検証でも、喫煙室とされた和室で喫煙された煙草の煙が非喫煙室とされた和室に流入することはなく、非喫煙室とされた和室において煙草の煙の臭いを感じることはなかったことが確認されている。したがって、原告を含めた久方中学校の非喫煙者が引率教員として本件教官室を利用する際において、本件教官室の和室二間を喫煙者と非喫煙者とで分け、かつ、襖、障子で仕切をした上で利用したり、喫煙者が喫煙する際には、障子を閉め切った上で、板の間で換気扇を作動させたり、窓を開放した状態で喫煙するというルールを設けることによって、その利用期間中分煙状態を作ることが客観的に可能となった。

三  請求原因に対する認否

1  請求原因1はいずれも認める。

2  同2は争う。

四  被告の主張

以下のとおり、本件判定は適法である。

1  間接喫煙の人の健康に及ぼす影響に鑑みると、間接喫煙を強いられないことの利益は十分に尊重に値するが、他方、喫煙の嗜好・慣習は長年にわたり社会的承認を受けて推移してきたことからすると、間接喫煙を強いられたことをもって直ちに人格権の侵害であるとか、直ちに完全な分煙を実現しなければ間接喫煙を強いられない利益の侵害に当たるというものではない。したがって、本件判定の違法性については、本件教官室の物理的構造、室内の空調施設の有無・性質、室内利用の種類、室内の利用形態、利用時間、喫煙者との協議・説得の可能性等諸般の事情を総合的に考慮した上で、本件教官室の利用が間接喫煙を強いられないことの利益を侵害する常況にあるのか、右利益を侵害から保護する上で禁煙措置を執ることが最も適切かつ可能な措置であるのかを判断して行うべきである。

2  以下の事情を勘案すると、本件教官室を利用する非喫煙者が間接喫煙を強いられ、かつ、それによって人格権を侵害される常況が現時点あるいは将来においてあるとはいえず、本件教官室について禁煙措置を執ることが最も適切であるともいえない。

(一) 本件教官室における窓その他の開口部の直接外気に向かって開放することのできる部分の面積は、常時床面積二三・三平方メートルであるのに対し三・三平方メートルである。事務所衛生基準規則三条一項は、喫煙等による一酸化炭素及び炭酸ガスの室内における蓄積を防止するための措置として、自然換気の場合は開口部面積が常時床面積の二〇分の一以上になるようにしなければならない旨定めているが、本件教官室の構造は右の基準を満たしている。

(二) 本件野外教育センターは、豊かな自然環境の中における学習や共同生活を体験させるために、名古屋市立の中学校二年生を対象として実施される二泊三日の野外教育、三泊四日の自然教育のための施設であり、引率教員による本件教官室の利用も右の期間に限られる。

(三) 本件教官室は、主として引率教員の打合せ、就寝のために利用されるが、野外教育期間における打合せ時間は短時間であるのが通常であって喫煙者と同席するとしても短時間に限られている上、就寝する場合の部屋は特に本件教官室に限られているわけではなく、引率教員が生徒の部屋で就寝することも可能である。

(四) 本件教官室は、引率教員の休憩室としての意味合いが強いため、これを一律に禁煙とするのは相当ではなく、これまでも、引率教員の中に非喫煙者がいるか、その数が喫煙者に比して多い場合には、各学校ごとの判断で、例えば、ロビーにバケツを置いて喫煙場所とするなどして、喫煙者・非喫煙者双方の要望を調整して状況に応じた適切な対応が執られてきた。

(五) 本件教官室は、専ら見識ある教員が利用するものである上、学校内における教職員室を禁煙にすべきかどうかといった事柄上利害調整が比較的難しい問題とは異なり、一時的に利用される本件教官室を禁煙にすべきか否かの問題であるから、喫煙者と非喫煙者との右調整は将来においても適切にされることが高度の蓋然性をもって期待できる。

3  本件判定は、基本的に右1、2の事項を考慮してされたものであり、その判断には、裁量権の範囲の逸脱又は濫用があるとはいえないから、適法である。

第三証拠

本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する(なお、判決理由中に記載されている各書証は、いずれも成立に争いがないか、真正に成立したことが認められるものである。)。

理由

一  (証拠・人証略)及び原告本人の各供述、検証の結果並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

1  稲武野外教育センターにおける野外教育について

名古屋市立の中学校は、自然環境の中における学習や共同生活を体験させることを通じて生徒の心身の健全な発達に寄与することを目的として、毎年度春から秋にかけて、中学二年生を対象に、市営の施設である稲武野外教育センターにおいて、二泊三日で野外教育を実施しているが、これには引率者として二年生担当の教師の外、校長、保健担当教員及び養護教員が参加することになっている。原告が勤務する久方中学校も毎年度右の野外教育を実施しているが、本件措置要求で問題とされた平成三年度の野外教育は、平成三年五月二七日から二泊三日で実施されたものである。

稲武野外教育センターは、第一本館、第二本館、第三本館及び多目的ホールから成っており、名古屋市立中学校が実施する野外教育は主として稲武野外教育センターの第一本館、第二本館及び第三本館を使用して行われるが、第二本館を使用して右の野外教育が実施される場合には、生徒を引率する教師は本件教官室を利用することになり、その場合、その二泊三日の実施期間中、本件教官室に荷物を置くとともに、日中は休憩に利用したり、教師間の簡単な連絡・打合せのため極く短時間利用することがあり、夜間は就寝に利用していた。なお、本件措置要求で問題とされた本件引率の際には、本件教官室で行われた打合せ中に喫煙する者はいなかった。

もっとも、稲武野外教育センターの第二本館には、その一階に会議室があり、学校からの申し出があれば、野外教育の実施期間中これを教官室として使用できることとなっており、実際にも、一日の反省会や翌日の日程等についての引率教師の打合せ等はここで行われていた。

2  本件教官室の構造

本件措置要求当時における本件教官室の構造等は以下のとおりであった。すなわち、本件教官室は第二本館の二階にあり、いずれも七・五畳の和室二間の間取りとなっていた。本件教官室の入口を開けると板の間上がり口から右和室二間に別々に入ることができるが、上がり口と和室二間の間はそれぞれ扉で仕切られていた。和室二間の奥には右二間を結ぶ横幅五・四メートル、奥行〇・六三メートルの板の間(廊下)があり、和室二間と右板の間とはそれぞれ障子で仕切られていた。板の間の外側壁には六枚のガラスが設置され、そのうちの四枚のガラス部分は窓になっていてこれを開閉することができたが、窓には換気扇等は設置されていなかった。和室二間は襖で仕切られていたが、その上部にある欄間はその上下に空間があった。

3  本件教官室の改善とその効果

本件教官室には、その後次のような改善が加えられた。すなわち、平成四年四月には、本件措置要求の審理に係る現場検証が行われたことを契機に、本件教官室内で喫煙がされた際の煙草の煙を排出する目的で、板の間の外側壁の窓ガラスに換気扇が設置された。また、平成六年四月には、本件判定において稲武野外教育センターの管理者等が喫煙対策を講ずるよう努めることを希望する旨付言されていたことを受けて、本件教官室の和室二間を区分する襖上部の欄間にベニヤ板を張り付ける工事を施工し、欄間の上下にあった空間をなくしたため、和室二間を仕切る襖、板の間側の障子、入口側扉をすべて閉め切れば、和室とそれ以外の部分とを完全に分離、密閉することができるようになった。その結果、本件教官室を利用する際、和室二間を喫煙者が使用する部屋と非喫煙者が使用する部屋とに区分し、襖・障子で仕切って使用すれば、喫煙者が使用する部屋で喫煙された煙草の煙が非喫煙室とされた和室に流入することはなく、非喫煙者が使用する部屋において間接喫煙を強いられるおそれはなくなった。また、喫煙者が喫煙する際、障子を閉め切った上で、板の間の換気扉を作動させた状態で喫煙すれば和室にいる非喫煙者が間接喫煙を強いられることもなくなった。

4  本件判定後における本件教官室の利用状況

本件教官室について右3のような改善が行われた後、これを利用する中学校によっては、和室二間を、引率教師のうち喫煙者が使用する部屋と非喫煙者が使用する部屋を区分し、いわゆる分煙状態にして利用するようになった学校もあり、平成七年度ではその数が五、六校あった。

また、久方中学校が実施する野外教育期間中、本件教官室で打合せを行う際には、従前から喫煙が自粛されており、本件引率の際にも打合せ中に喫煙がされたことはなかったが、平成四年度は、打合せ以外の場合にも本件教官室内での喫煙を自粛し、喫煙する場合には必ず換気扇を作動させその付近で行うこととされた。平成五年度以降は、打合せ中は禁煙とされ、引率教師の喫煙場所が予め一定の場所に指定されるようになり、実際には、本件教官室の奥の板の間が喫煙室と指定され、換気扇を作動させながら喫煙するものとされた。更に、平成六年度は平成六年五月一八日から二〇日にかけて野外教育が実施され、原告も引率教師として参加したが、その際には、本件教官室の和室二間を喫煙者の使用する部屋と非喫煙者の使用する部屋に区分して利用し、板の間の窓に設置された換気扇を作動させながら喫煙することとされたため、原告が非喫煙者として自室にいる限りは隣室等から煙草の煙が流入することはなく、間接喫煙を強いられることはなかった。

二  本件訴えの適法性について

1  本件措置要求の趣旨は、原告が稲武野外教育センターで実施される野外教育の引率業務に従事する際の勤務条件の改善要求として、右引率業務の際に利用する本件教官室において、同僚教師の喫煙による間接喫煙を強いられることを防止するための措置として本件教官室の禁煙等の適当な措置を講じることを求めるという点にあるものと解される(この点、本件措置要求の文言自体からは必ずしも明らかではないが、仮に、本件措置要求の趣旨が、原告以外の者が本件教官室を利用する場合も含め、本件教官室を一律かつ全面的、恒常的に禁煙とする措置を求めることにあるとすれば、措置要求の対象となる「勤務条件」は要求者自身の「具体的な勤務条件」に限られ、自己の勤務条件とは関係のない第三者の勤務条件について措置を求めることは容認されないものと解されるから、本件措置要求はそれ自体不適法というべきである。また、仮に原告に対する関係で本件教官室を禁煙にするよう求める場合であっても、それが間接喫煙を強いられることを防止するための適当な措置としての禁煙ということ以上に、直接・具体的に久方中学校校長に対し禁煙措置を講じること自体を求めることにあるとすれば、同校長の管理運営権限に抵触するおそれがあり、地公法四六条の「当局により適当な措置が執られるべきことを要求することができる。」旨の規定に反する措置要求事項というべく、これまた不適法な措置要求として却下を免れないことになるからである。)。

本件措置要求の趣旨が、右のとおり、原告が野外教育に伴う引率業務の際に利用する本件教官室において間接喫煙を強いられることを避けるための適当な措置を求めるという点にあることからすれば、本件判定後の事情の変化により、本件教官室を原告が利用した際に間接喫煙を強いられる状態が解消するに至った場合には、もはや間接喫煙を強いられない利益の回復を目的とする訴えの利益は失われるに至ったものといわなければならない。そして、本件教官室を原告が利用する際に間接喫煙を強いられないための方策としては、本件教官室を禁煙とする方策が唯一のものというわけではなく、その他にも喫煙者と非喫煙者を分離していわゆる分煙を図ることも、間接喫煙を強いられることを防止するための賢明で、かつ、実効的な方策の一つであると考えられるのであるから、本件判定後に本件教官室についてなされた改善の状況を踏まえた上で、その分煙の方策が執られること等により非喫煙者が間接喫煙を強いられるおそれが解消されたと認められる場合には、本件判定の取消しを求める訴えの利益は失われるものと解するのが相当である。

2  ところで、間接喫煙を強いられないことについての利益は、間接喫煙が健康に及ぼす影響が少なくとも疫学的知見としては認められる(〈証拠略〉)から、それが人の健康に関する事柄である以上、法律上保護されたものというべきである。しかし他方、喫煙の嗜好及び習慣は長年にわたり社会的承認を受けてきていることも事実であり、今なお喫煙の習慣をもって、それが個人的嗜好の問題として他から容喙されるべき問題ではないと考える相当数の人がいることも無視することはできないのであって、間接喫煙がわずかでも強いられれば直ちに人体に無視できない重大な影響を及ぼすというような、医学的にみてその健康被害が喫緊の問題であるとまでいえるのであれば格別、その健康被害がいまだ統計的手法によってしかこれを示され得ていない現時点においては、間接喫煙を強いられた状態が生じさえすれば、それがその程度如何を問わず直ちに人格権ないし間接喫煙を強いられない利益の違法な侵害にあたるとまでいうことは到底できないものである。

右の点からすれば、本件においては、前提として先ず次の点に着目しておく必要がある。すなわち、前記一の認定事実から明らかなとおり、原告が本件措置要求においてその改善を求める勤務条件が、原告が日常勤務する勤務場所におけるものではなく、名古屋市立中学校で毎年度一回実施されている二拍三日の野外教育の引率業務に従事する際に利用する場所におけるものであり、しかも、野外教育の引率業務に従事する際必ずしも本件教官室を利用するとは限らないこと、更に、野外教育の引率業務に従事する教師は二年生担当の教師だけであるから、毎年必ず参加するというわけでもなく、したがって、原告が本件教官室を勤務場所として利用する機会はかなり少ないといえる上、これを利用することがある場合でも二泊三日の期間にすぎないことである。しかも、野外教育期間中、本件教官室を常時使用して執務をするというわけではなく、原則として夜間は就寝に利用する(場合によっては、本件教官室に限らず会議室を利用することもできる。)が、日中は勤務時間の合間の休憩に、また、場合によっては短時間の連絡・打合せに使用することがあるのみであるというのである。

そこで、右の観点を踏まえた上、本件判定後に本件教官室についてなされた改善等の事情により、原告が今後野外教育の引率業務に従事するため本件教官室を利用する際において間接喫煙を強いられるおそれが解消されたかどうかについて検討することとする。

3  前記一の認定事実によれば、平成四年四月及び平成六年四月の二度にわたって本件教官室が改善されたことにより、本件教官室を利用する際、その和室二間を喫煙者用と非喫煙者用に分け、これらを襖及び障子で仕切って使用すれば、喫煙者が使用する部屋で喫煙された煙草の煙が非喫煙者が使用する部屋に流入することはなくなったこと、また、和室二間と板の間を仕切る各障子を閉め切った上で、板の間で換気扇を作動させた状態で喫煙することとすれば、和室に煙草の煙が流入することはなくなったこと、その結果、本件教官室を右のようないわゆる分煙の状態にしてこれを利用するようになった学校もあること、原告が勤務する久方中学校においても、平成五年度以降は、引率教師の喫煙場所が予め一定の場所に指定されるようになり、年によって、本件教官室の奥の板の間を喫煙室と指定して、そこで換気扇を作動させながら喫煙するものとしたり、本件教官室の和室二間を喫煙者の使用する部屋と非喫煙者の使用する部屋に区分して利用し、板の間の窓に設置された換気扇を作動させながら喫煙することとしたりし、その結果、本件教官室が改善された後は、非喫煙者が自室にいる限りは隣室等から煙草の煙が流入することはなくなったことが認められる。右の事実に照らせば、原告が今後野外教育の引率業務に従事するに当たり、本件教官室を利用する際には、現に平成五年度以降において採られたようにいわゆる分煙の状態でこれを利用することが容易に期待でき、その場合には、間接喫煙を強いられるおそれはもはやなくなったということができる。もっとも、原告が他の引率教師との簡単な連絡・打合せを行う際には、喫煙者と同席せざるを得ない以上、右の分煙方策を執ることは不可能であるから、観念的には、万一右の打合せ中に喫煙がされれば原告が間接喫煙を強いられることを避けられないことになるが、前記一の認定事実によれば、右の打合せは通常極めて短時間で終了するものである上、久方中学校では、本件引率当時から打合せ中は喫煙が自粛されており、平成五年度以降は、打合せ中は禁煙とされ、これが実行されている事実が認められるのであるから、原告が打合せ中に間接喫煙を強いられる事態は容易には予想できないというべきであり、また、仮にそのような不測の事態の発生が考えられるとしても、その可能性の程度或いは頻度については、本件教官室を全面的に禁煙にするか否かにより格別差異が生じるとも思われないから、いずれにしても、原告が間接喫煙を強いられるおそれは既に解消されたとの前記認定を左右するには足りないというべきである。

したがって、本件判定の取消しを求める本件訴えは、その余の点について判断するまでもなく、訴えの利益を失ったものとして不適法というべきである。

三  結論

よって、本件訴えは、訴えの利益を欠き不適法であるからこれを却下することとし、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 片野正樹 裁判長裁判官福田晧一、裁判官立石健二は、いずれも転補につき、署名押印することができない。裁判官 片野正樹)

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